小学生時代、ピーピーマメのあり場所を脳内マップにして覚えていたり、次の席替えでいい席になるように海で友達と祈りの儀式を考えたり、しょうもない日々を過ごしていた。楽しかったが、すごく夢中なことはないし、何かへの目的もない感じがした。

だからかな、「なんで生きてるの?」ということをよく考えていた。

とはいえ、図鑑や本や漫画に夢中な面もあったり、友達や先生たちの行動がなぜそうなるのか考えるのが好きだった。

特に図鑑の最後にのってる進化系統樹が好きだった。

そういうことからか、他人の理解できない行動でも

「生き残りに有利だからそういう風に備わってる」

という風に考えるようになった。

例えば、「仲良くする」ってことやわざわざ友達をがんばって作るために努力する人の行動が、その時は心の底から不思議だったが、

「集団でいると有利になるからそういう機能が備わっているんだ」

みたいに思うとすごい納得がいった。

そんなことをずっと考えていると、小学生の私は一旦こんな答えにたどり着いた。

「どこからか、ずっと”生きたい”という意思が強いものが生き残って積み重なった結果今の生命がある。ただそれだけ」

ということだった。

ただ、「なんで生きてるの?」になんとなくニュアンスとしてある「何のために生きてるのか」という問いには全く答えられないような結論ではあった。

だからこそ、この答えにたどり着いたとき感じたのは今言語化すると

「世の中の無常観」と「生命の無限さ」

みたいなものだったかなぁ。

小学生の当時、答えにたどり着いたときにはしっくりきてうれしいような感じもあったし、なんか混乱した感じはあった。それでもってあまり解決してない感じもした。

後々、この時感じた「世の中の無常観」に関しては、国語便覧に載っていた鴨長明が似たようなことを言っていたので、「そういうもん」として落ち着いた。それでもってその感覚にすごく共感を覚えて、「マジ鴨長明わかる。無常観最高やな」って感じだった。今高校生の妹も同じことを言ってた(笑)。

問題はこの「生命の無限さ」だ。

大学生現在やっとなんだか言語化できそうな感じがしてきたので書いてみようと思う。

まず感じた、「生命の無限さ」は小学生の私の語彙力では

生きたいって意思がつよければ強いほど、良い機能が備わって子孫が残り続いていく。それが単細胞生物みたいな単純なところからずっと続いて複雑なものが形成された。ずっとずっと生きたい意思が続いていた。生きてるから備わってるんじゃなくて、備わってるからこそ生きてる。

みたいな感じだ。今の知識で見ると、なんとも言い表せないのがこの「生きたい意思」っていうもので、生物学的にもよくわかんないし、この私が小学生の時に考えたものは核心をついてるようで、厳密にはいろいろ違うとおもう。生物の淘汰はこういう理論ではなくて「たくさんあるものから間引かれていった」という感じで「生きようとする意思」みたいなものがある前提ではない。「生きようとする意思」は生物として複雑になってから出てきたものかもしれないしね。

まあとりあえず、「生物の淘汰」に関して厳密なことは置いておこう。

言語化できたのはこの「無限さ」だ。

「小さい三角形を無限に増やしていったら円と一緒になっていく」

小学生の時、円の面積を求めるときに

みたいな説明された。

二次曲線の中で連続関数を微分するときも

「曲線上の中で2点の距離をどんどん範囲を限りなく0に狭めて直線を結ぶと傾きが求まるはず」

という風に教わった。

「生命の無限さ」も似た感じな気がする。

ずっと前の世代前の世代…と、概念としてはどこまでも遡れそうな感じである。どこかで区切れるんだろうけど、無限に続くように感じる。

円の面積や微分でやっていることーー分数の分母をどこまでも大きくしてゼロに近づけるみたいなことーーーと同じ匂いを感じる。

そうして誰かがXでつぶやいていたけど

「世の中には無限大を作り出すシステムが存在するだけ」

というのがとてもすっきりする答えな気がする。これが自分が今のところ小学生の時感じた不可解なことへの説明として落ち着いている。

生命の先祖をたどり永遠を戻ったその先に、生命の根源があるのかもしれない。

ただ条件や変数が多すぎて微分できない式になっているのかもしれないけど。

最近はその無限大を生み出すシステムの方が大事なんじゃないかなとか考えてる。

とりあえず、無限みたいに続く生命の先祖をたどり収束する先を

LUCA(ルカ) Last Universal Common Ancestor

っていうらしい。

(笑)